サンドズ製薬に勤務していた化学者アルバート・ホフマンは、スイスのバーゼル(スイス北西部の都市)で血液の活性剤の研究中に、初めてLSDを合成しました。しかしその幻覚作用については、1943年にホフマン自身がLSDを偶然服用するまでは知られていませんでした。後になってわかったことは、わずか25マイクログラム(塩の数粒と同量)を口から取るだけで、鮮明な幻覚作用を作り出すことができるということでした。
LSDは、脳内に存在する化学物質に類似しており、またその作用がいくつかの点で精神病に類似していることから、1940年代から60年代にかけて精神科医たちによって実験に用いられました。研究者たちはこの薬物にどのような医療上の用途も見つけることはできませんでしたが、サンドズ製薬によって実験のために支給された無料のサンプルが広範囲に配布されたことにより、多くの人がこの薬物を用いるようになりました。
1960年代に入り、心理学者のティモシー・ラリーといった人がLSDの名を世間に広めました。ラリーはアメリカの学生たちに「しびれて、目覚めて、抜け出せ」と説き、LSDの使用を奨励しました。これによって薬物乱用という「カウンターカルチャー(反体制文化)」が確立され、LSDはアメリカから英国、そしてヨーロッパ全土へと広まりました。今日でも、英国におけるLSDの使用率は世界のどこよりも際立って高くなっています。
1960年代のカウンターカルチャーはLSDを現実から逃避する手段として用いましたが、西側諸国の諜報機関と軍は、この薬物を化学兵器としての可能性があるものと見なしていました。1951年、こうした組織が一連の実験を開始しました。アメリカ合衆国の研究者たちは次のように記しています。「LSDにより、軍隊など、人々の集団全体を周囲の環境や状況に対して無関心にし、何かを計画することや判断を下すことを妨害できる。また不安やコントロール不能な混乱、そして恐怖さえもつくり出すことができる。」
LSDを用いて、諜報機関の標的となった人々の人格を変え、ひいてはすべての人々をコントロールできるかどうかを見る実験が行われました。こうした実験は、1967年にアメリカ合衆国で正式にこの薬物の使用が禁止されるまで続けられました。
LSDの使用は1980年代に下火になりましたが、1990年代には再び取り上げられるようになりました。LSDは1998年から数年間、十代後半から20代前半の若者によってクラブやパーティーなどで広範囲に乱用されましたが、2000年頃にこの薬物の使用は大幅に減少しました。